ホリエモン「寿司職人が何年も修行するのはバカ」発言から考える。

ホリエモン「寿司職人が何年も修行するのはバカ」発言から考える。

ホリエモン「寿司職人が何年も修行するのはバカ」発言

人は、自分の生きた道を否定されることには強い抵抗がある。

寿司職人に長期間の修行期間が必要かどうかについて議論が沸き起こっている。

人は、自分の生きた道を否定されることには強い抵抗がある。

論争相手の話に、本心は納得していたとしても、そう容易に認めることができるものではない。

長年の修行を重ねた人が、長年の修行を真っ向から否定する人に対して嫌悪感をもつのは当然だろう。

ただし、一流の料理人にとってその一流たる理由を「経験年数」とされ、同じ「経験年数」の料理人と十把ひとからげにされたらそれはそれで嫌悪感をもつはずだろう。

「あなたが一流たる理由は経験年数ではないだろう。」という言われ方をすれば、和解してしまう程度の話なのかもしれない。

戦略としての修行期間

修行が必要。不要 ということについて 一見、180°違う考えに感じるけど
感情的な対立こそあれ、根本的な差があるとは思わない。

両方の立場の方ともに、下記のことについては同意するのではないだろうか。

1.技術の習得には、一定数の反復が必要である。

2.技術の習得速度には、大きな個人差がある。

長い修行期間をばからしいと言っている人も、一定の経験は当然必要だと思っているわけで
長い修行期間が必要だと言っている人も、長い修行期間があれば、誰でも一流になれるといっているわけではない。

最低このくらいの経験が必要だという足切りラインについて過去の経験則で個々の考えがあるにしても、修行期間という長さが本当に大事だと言っている人はいないだろう。

では、なぜ修行期間が幅を利かせているのかと言えば、ひとつには、店の成否が、本質的な品質よりもブランド力に委ねられているという面がある。

「有名店で15年修行」という情報は、「我流で3年」という情報よりも、ブランド力の質が高い

と言える。

それは、集客に対してもリアクションに対しても有利に働くという現実がある。

特に、ほとんどの飲食店が5年と生き残れないという現実の中で、この希少価値のもつ意味は大きい。

そういう意味では、

3.有名店での長い修行は、戦略的な意味がある。
と言えるだろう。

批判は、修行の質に向かうべきだ。

むしろ、批判は、修行の質に向かうべきだろう。

恐らく多くの方が下記については同意するのではないだろうか。

4.技術の習得と関係ないことに時間を費やしても技術は習得できない。

球拾いをいくらしても、野球がうまくならないように
いくらまな板をきれいにできても、寿司が上手に握れるようになるわけではない。

そういう意味では、職人の修行っていうのは、技術を習得するという意味では非効率すぎるという面もあるのかもしれない。

個の技術習得の最適化という意味では、実店舗での修行よりも具体的な技術習得に特化した研修施設の方が優れているということだと思う。

全体最適への配慮も必要

では、社会の全体最適ということを考えるとどうだろうか。

低成長時代には、敢えて、成長を遅らせるシステムというのも合理的な面がある。
店が増えないのに、すぐに店主になりたい人ばっかりになれば、うまくいくはずがないし、全体的な幸福度が低下してしまう。

同時に、実際に必須業務としてルーティンワークが存在する以上、誰かにやってもらう必要があり、それを気持ちよくやってもらうためには、そのあとに技術習得が控えているという状態を一定期間作るということは、現実的なひとつの方法だと言えるだろう。

それらの環境を加味すると、緩やかに技術を伝授していき、そこに美徳を感じるという文化が必要になる。

それらを考慮すると、一見、個の可能性をつぶしているように見える長い修行期間も全体最適という意味では有効なのかもしれない。

無関係な人が、個別最適的な視点だけで客観的な意見を言うことは、全体最適を崩す可能性がある。ということも改めて配慮しなければならない。

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